伊勢原観光道灌まつり

■神奈川県伊勢原市 小田急線伊勢原駅周辺
■JR相模線「厚木駅」から小田急小田原線「伊勢原駅」下車

江戸城築城で知られ、伊勢原でその生涯を閉じた戦国の武将・太田道灌にちなんで名付けられたお祭りで、道灌公鷹狩り行列、北条政子日向薬師参詣行列、観光総おどりなどが行われ、市内最大のイベントです。2日間にわたり、駅周辺の歩行者天国で盛大に開催されます。

【歴史メモ】

伊勢原観光道灌まつりの主人公、太田道灌は江戸城築城で有名な室町時代後期の武将です。

太田道灌は永享4年(1432)、扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれました。幼名は鶴千代といい、元服後は資長と名乗りました。有名な「道灌」の名は出家後の法名になります。道灌は幼い頃から優れたといわれ、鎌倉五山で学問を修め、足利学校でも学んだといわれています。

道灌や道灌の父が仕えていた扇谷上杉家は、関東管領上杉氏の分家の一つでした。関東管領上杉氏は山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷上杉家がありました。その当時は山内家が関東管領職を独占しており、扇谷家は山内家を支える分家のような位置づけにありました。

この頃、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立から永享の乱が起こります。足利持氏が幕府軍に滅ぼされて鎌倉公方は一度中絶し、その後幕府によって持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に、憲実の長男・山内上杉憲忠が関東管領に任じられました。そして道灌の父である太田資清は憲忠の義父の要望により憲忠を補佐することとなりました。

しかしこの山内憲忠が鎌倉公方・成氏に暗殺されてしまいます。上杉一門は報復のために立ち上がり、成氏を攻めました。ですが享徳4年(1455)分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、この時に当時の扇谷家当主も討たれてしまいます。

幕府は足利成氏の討伐を決め、幕府軍が鎌倉に攻め寄せました。敗走した成氏は下総の古河城に拠点を置き、古河公方を称して抵抗しました。そして成氏は関東管領上杉氏に反感を持つ関東の武将たちの支持を集めたため、関東地方は古河公方陣営の東側と、関東管領陣営の西側に分断されました。これがその後30年近くにも及ぶ享徳の乱です。

道灌が父から家督を譲られたのはそんな戦乱のさなか、康正2年(1456)のことです。以後、道灌は扇谷家の当主二代にわたって補佐し、長きにわたる享徳の乱を戦いました。

道灌は古河公方側と戦うための防御拠点として、河越城、岩槻城を築きました。さらに古河公方側の有力武将・千葉氏を抑えるために、両勢力の境界である利根川下流域に城を築く必要がありました。そうして築城されたのが、江戸城です。

道灌は江戸城の畚として日枝神社や築土神社、平河天満宮など、今に残る多くの神社を江戸城の周辺に勧請、造営しました。江戸城には今も「道灌壕」の名が残っており、築城当時の面影をわずかに残しています。

その後、上杉氏の中でも謀叛が起こりました。山内家の家宰職を与えられなかった長尾景春(道灌のいとこ)が古河公方と結び挙兵したのです。道灌は古河公方側の有力武将の城を次々に落とし、長尾景春も破りました。そして文明14年(1482)についに古河公方側と上杉側の和議が結ばれ、長きにわたった享徳の乱がようやく終結の時を迎えたのでした。

道灌は三十数回にも及ぶ合戦を戦い抜き、ほとんど独力で主家・上杉家の危機を救った英知に富んだ武将でした。

■主催:伊勢原市
実施主体:伊勢原観光道灌まつり実行委員会
■問合せ先:伊勢原市商工観光振興課 伊勢原観光道灌まつり実行委員会
住所:〒259-1188 伊勢原市田中348 2階3番窓口
電話:0463-94-4711(代表)  内線 2131・2132・2136・2137・2138
FAX:0463-95-7613
■Webサイト:
伊勢原市役所公式ホームページ
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/
伊勢原市観光協会
http://www.isehara-kanko.com/

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