平安王朝 雅体験 〜紫の縁「源氏物語」の世界〜

平成24年3月24日(土)・25日(日)

こちらのイベントは終了いたしました。

大覚寺にて平安王朝装束である十二単を身にまとい1200年の世界を旅してみませんか?
舞楽台での衣紋道(えもんどう)実演や通常非公開の書院「庭湖館(ていこかん)」での平安時代のしつらえ再現、昼食には、「離宮嵯峨御膳」をお召し上がりいただきます。(定員150名)


◆平安装束を着て、大覚寺境内回遊
◆舞楽台での衣紋道実演・解説
◆庭湖館(非公開書院)での平安時代のしつらえ再現
◆昼食(離宮嵯峨御膳)

◆申し込み方法◆
京都市観光協会ホームページよりお申し込みください
京都市観光協会『千年の心得』ホームページ
http://sennen-kokoroe.jp/
紫の縁「源氏物語の世界」資料請求案内ページ
http://www.kyokanko.or.jp/huyu2011/2011huyutabi_3.html#huyu11_3_7

◆開催日◆

平成24年3月24日(土)・25日(日)

◆参加 お一人様 25,000円
*カツラ・メイクをご希望の場合は別途35,000円要

◆集合場所・時間
旧嵯峨御所大覚寺門跡 9時30分〜11時受付
※着替え終了〜閉門時間(16:30)までゆっくりとお過ごし下さい。

◆交通アクセス
京都駅よりJR嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車 徒歩約20分。
または、市バス28「大覚寺」下車すぐ

お申し込み時に衣裳を下記6種よりお選びください。

●十二単(じゅうにひとえ)
●細長(ほそなが)
●袿(うちき)
●狩衣(かりぎぬ)
●直衣(のうし)
●白拍子(しらびょうし)

※十二単、細長については、諸堂エリアの回遊のみとなります。
※それぞれの衣裳の数には限りがございます。

十二単(じゅうにひとえ)
十二単
十二単は、男性の束帯(そくたい)にあたる成年女性の朝服で、宮中の正装です。唐衣裳(からぎぬも)姿ともいわれ、今日俗に十二単と呼ばれています。
主君の不在時は唐衣を略することも許されましたが、裳は必ずつけなければいけませんでした。平安中期に内に着込める重ね袿風がきわめて華美となって多数枚を着るようになりましたが、平安末期から鎌倉時代には重ね袿を五領とする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められました。その重ね袿の色は‘かさね色目’として現在に伝わり、貴族女性が生み出した装束への美意識を垣間見ることができます。
髪は垂髪(すいはつ)[特別の儀式の時は、頭頂に結いあげをつくり、これに額(ひたい)、櫛(くし)、釵子(さいし)等を飾ります]、眉は作眉としました。
衣服の構成は緋の袴(若年未婚は濃色(こきいろ))、単(ひとえ)、五つ衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)、衵扇(彩色され美しく飾られた檜扇)、帖紙、足には襪(しとうず)をはきます。
細長(ほそなが)
細長
平安時代、高貴な女性の褻の装束として用いられた細長。
若々しさや身分高い華やかさの象徴として『源氏物語』の中に数多く登場する装束です。その姿は11歳の紫の上、8歳の明石の姫君の「桜の細長」が見え、さらに成人女性の料としては、女楽の夜の39歳の紫の上、38歳の明石の君、16歳の女三宮の細長姿などが登場し、着用年齢の幅の広さがうかがえます。
また、有名な場面では、蹴鞠の最中に柏木が女三宮を垣間見て恋におちる場面の細長姿があります。柏木は、垣間見た美しい女性が他の十二単姿の女房とは違い、桜の細長を着ていることから、その身分の高さを知り、女三宮に違いないと恋い焦がれます。このように細長は身分高い女性が纏った装束でした。
袿(うちき)
袿
貴族に仕える女房の姿は唐衣(からぎぬ)、裳(も)をつける正装ですが、これを省いた袿姿は、高貴な女性の日常着として使われていました。小袖と袴、単、袿は二陪織物などの豪華なものを着用し、単と袿の間に袿を数枚重ねることもありました。
顔がすべて同じで描かれている絵巻などで、主人公の姫君を探したい時は、この袿姿で発見することができます。
狩衣(かりぎぬ)
狩衣
麻製の布衣(ほい)と呼ばれる実用着から発し、公家服飾に発展したのが狩衣です。
身頃の両脇が広く開いた活動的な装束で、公家の日常や、鷹狩り等に行く時に着る行動的な装束として利用されました。狩衣の特徴は身一巾で脇があき、袖は後ろの一部分だけ身につき、袖には袖括りの紐がつけられています。身幅が狭いの余分なふくらみがなく体によく添い、袖も絞ることができるので、活動的です。
解り易くいいますと、狩衣は平安式スポーツウェアという位置づけです。
現在も狩衣は神職の服装として用いられています。
衣服の構成は、単(ひとえ)、指貫袴(さしぬきはかま)、狩衣、頭には烏帽子をかぶり、手には桧扇(もしくは蝙蝠(かわほり))を持ちます。
平常の院参まで着用が認められましたが、参内には許されていなかった装束です。
直衣(のうし)
直衣
貴族の私邸での装束で、衣冠(いかん)と呼ばれる装束とほぼ同じですが、衣冠が位袍だったのに対し、直衣は色や文様に決まりの無い‘雑袍’で、好みの色を着ることができます。装束の構成は、単、指貫袴(さしぬきはかま)、衵(あこめ)、袍(ほう)、頭には立烏帽子をかぶり、素足に浅沓を履きます。場合によっては衵(あこめ)を出衣(いらしぎぬ)とし、その色合わせの妙が女性に称えられました。直衣で威儀を正す際は冠をつけて冠直衣としましたが、常の寛いだ時は烏帽子をかぶります。手には桧扇をもち、袍の懐には帖紙(たとうし)、笏(しゃく)が入れられています。
白拍子(しらびょうし)
白拍子
白拍子(しらびょうし)は平安朝末から始まった男装の麗人舞妓です。歌舞伎の世界で女形が流行るように、平安時代の白拍子は、現代の宝塚スターのような存在でした。有名な白拍子では、妓王、妓女、佛御前、静御前等が知られています。
衣服の構成は、単、水干(すいかん)、紅長袴、太刀、頭には立烏帽子をかぶり、手に蝙蝠(かわほり:地紙の片面に骨のある扇)を持っています。後には荒々し過ぎるとして立烏帽子と太刀を略されることもあり、白の長袴をつけることもありました。
源平盛衰記や義経記には佛御前や静御前が髪を結いあげて烏帽子を省き、白袴を付けたことが記されています。
長い袴が女装を意味するものであるのに対し、水干をつけることが男装とされていました。