本願寺津村別院(北御堂)親鸞聖人750回大遠忌法要 御堂筋パレード

平成25年11月16日(土) *平成25年度のお祭りは終了しました。


大阪市の南北幹線の基軸である御堂筋―。

その名称は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(本願寺難波別院)が沿道にあることに由来します。「御堂筋」という地名の初見は元和元年(1615)、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の『大坂濫妨人落人改之帳(おおさからんぼうにんおちうどあらためのちょう)』の中に見られ、少なくとも江戸時代には御堂筋と呼ばれていたことがわかります。

北御堂と南御堂の沿革は、戦国時代まで遡ります。

明応5年(1496)、本願寺第8代宗主である蓮如上人の手により、大坂の地に親鸞聖人から伝えられた「お念仏」の教えを広めるため、現在の大阪城の辺りに小さな坊舎が建立されました。その後、天文2年(1533)に山科本願寺が大火によって消失すると、この大坂の御坊が本山として定められ、大坂本願寺(石山本願寺)が誕生します。大坂の町は大坂本願寺の寺内町として整備され、飛躍的な発展を遂げました。

しかし、第11代宗主顕如上人の時、元亀元年(1570)、天下統一を目指す織田信長と真宗門徒との間で争いが起こり(石山合戦)、11年にも及ぶ長い戦いのため、本願寺は大坂から退去せざるを得なくなりました。その後織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂本願寺の跡地に大坂城を築きます。そして秀吉は本願寺に現在の西本願寺の地を寄進し、本願寺の本山は京都へと移りました。

残った大坂の門徒たちは天正19年(1591)、大坂の地での「お念仏」の灯りを守るため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建てました。その6年後、慶長2年(1597)には「楼の岸」から「津村郷」の地に移転し、新たに坊舎を建立します。これが津村御坊、「北御堂」と称される現在の津村別院の誕生です。

一方、南御堂(難波別院)の成り立ちは、文禄4年(1595)に顕如上人の子・第12代宗主である教如上人が大坂渡辺の地に大谷本願寺を建立したことに始まります。慶長3年(1598)、豊臣秀吉の大坂城拡張により城下の町制改革が進み、現在の難波別院の地に移転しました。その後慶長7年(1602)には関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康より現在の東本願寺の地を寄進され、京都の地に本山を移転します。それと同時に教如上人は大谷本願寺の地を「難波御堂(難波別院)」とし、大坂における念仏の中心的な道場とし、教如上人自身もたびたび大坂に赴きました。

この南北御堂は門徒である商人たちと共に大坂の町の発展を築き、「御堂さん」として今もなお大阪の人々に親しまれ、篤い信仰を集めています。

今回の御堂筋パレードでは、龍谷大学や相愛学園など宗門関連学校による吹奏楽や、宗門関係者による雅楽の演奏などに加え、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の750回大遠忌法要の最終日にちなみ、南北御堂に関わりの深い人々を取り上げた時代行列を行いました。

親鸞聖人の生きた時代である平安・鎌倉時代行列では可愛らしい水干姿に身を包んだ幼少期の親鸞聖人やその両親、親鸞の妻である恵信尼などが登場した親鸞聖人のご生誕の時代絵巻に、天女や侍女役の学生たちが所作の踊りを加えた行進で行列に華を添えました。室町・戦国時代行列では、本願寺中興の祖であり石山本願寺を築いた蓮如上人、石山合戦を戦った顕如上人を中心とした凜々しい甲冑姿の行列が雄々しく練り歩きました。そして江戸時代行列では、商都大坂を発展させた商人たちに扮したあきない行列が繰り広げられ、沿道の人々の目を楽しませました。

このたび行われた御堂筋パレードは、その名の由来となった南御堂から北御堂を結ぶ約500メートルを練り歩きました。宗祖親鸞聖人のご生誕と、本願寺の歴史絵巻に続き、本願寺とともに繁栄してきた御堂筋の歴史をたどり、次世代に伝えてゆく華やかな時代絵巻パレードでした。

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準備風景

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江戸時代の商人たち

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天女と侍女による所作

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最後は北御堂で全員集合