松江武者行列

平成26年4月5日(土)

松江城は慶長16年(1611)、堀尾吉晴によって築城されました。

堀尾吉晴は、尾張国の土豪・堀尾泰晴の長男として生まれました。父・泰晴は元々岩国城主織田氏に仕え重職に置かれていた人でした。この頃岩国織田氏は織田信長に圧迫されており、吉晴の初陣は織田信長の軍勢との戦いでした(岩国城の戦い)。この時一番首を取る功名を立てるも、主君である岩国織田氏が滅ぼされてしまい、吉晴は浪人の身となりました。その後尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣であった羽柴秀吉に仕えました。吉晴は秀吉に従って各地を転戦し、幾多の武功をあげ、秀吉の出世と共に一代で大名にまで出世しました。

戦場では勇敢に戦う武勇に優れた人物として「鬼の茂助」と呼ばれた吉晴ですが、容姿は端整で、その人柄は温厚で誠実、人望も篤く「仏の茂助」とも呼ばれていました。そして秀吉の家臣団の中では最古参の重臣であったことから影響力が強く、秀吉の死後対立を深める徳川家康と石田三成の間に立ち仲介役を務めました。秀吉の死の翌年、老齢を理由に家督を次男の忠氏に譲り隠居し、家康から隠居料として越前府中に5万石を与えられています。

関ヶ原の戦いでは家康側の東軍に参加しました。本戦の直前、三河国鯉鮒で宴会中に三河刈谷城主・水野忠重が美濃国加賀野井城主・加賀井重望に殺害されるという事件が起こり、この時吉晴も重傷を負ったため、本戦には参加できませんでしたが、代わって出陣した息子の忠氏が功を立て出雲富田24万石に加増移封されました。

富田城に入った忠氏は、領国支配の中心となる新しい城の建築を計画しましたが、関ヶ原の戦いから4年後に早世してしまいました。家督を継いだ孫の忠晴はまだ幼かったので、吉晴が後見として藩政を執り、松江城の建設と城下町の整備に尽力しました。

「松江武者行列」では松江開府の祖である堀尾吉晴公とその一行が松江城に入城する様子を再現した時代絵巻です。今年は雨天が危惧されていましたが、当日は奇跡的に晴天となり、無事行列が執り行われました。満開の桜に彩られながら、色とりどりの甲冑や衣裳を身に纏った人々が松江市内を練り歩きました。

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