大和郡山お城まつり

平成26年3月30日(日)

大和郡山の地は京都や大坂に近いことから、昔から政治や軍事の要衝でした。そのため多くの有力者がこの地を治めようと争いを続けていました。
争いの続く大和国を統一したのが戦国大名・筒井順慶でした。順慶は織田信長に臣従し、長年の宿敵である松永久秀を信貴山城で滅ぼし、信長から大和国一国の支配を認められました。順慶はそれまでの居城であった筒井城から郡山城へ移転し、大和郡山の地は郡山城の城下町として発展しました。

順慶の死後は養子である筒井定次が豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ移封となり、秀吉の弟である豊臣秀長が大和・和泉・紀伊国三か国100万石の領主として郡山城に入城しました。秀長の手によって郡山城は100万石に相応しい城郭に改修され、城下町の整備も行われました。奈良市中で行われていた商売を禁止し、郡山城の城下町に職人や商人を集中させ経済の中心地とするなど、大和郡山の発展に大いに力を注ぎました。

秀長の死去後、郡山城の城主は目まぐるしく入れ替わりました。江戸時代になると、柳沢吉里が甲府城から郡山城に入り、郡山繁栄の立役者として活躍しました。吉里は郡山に養蚕を奨励し、経済振興に寄与しました。また、趣味で飼っていた金魚をこの地に運んだことから金魚の養殖が始まり、幕末期の下級武士の副業として、明治維新後は職を失った武士や農民の副業として盛んに行われるようになりました。現在、大和郡山の金魚養殖は日本最大の産地として発展しました。

*平成26年は雨天により中止となりました。

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