四條畷楠公まつり

平成26年3月30日(日)

時は南北朝時代。鎌倉幕府が倒され、朝廷が南朝と北朝に分かれ戦いを繰り返す混乱の時代です。天皇中心の政治を行おうとする後醍醐天皇の南朝方と、武士の支持を集めて武家中心の政治を行おうとする足利尊氏側の北朝方。両者の争いは日に日に熾烈さを増していきました。
楠木正成は後醍醐天皇に忠義を尽くした南朝方の武将でした。鎌倉幕府打倒や北朝方との戦いで奮戦しましたが、1336年に湊川の戦いで命を落としました。
この時、嫡男の正行はわずか11歳でした。父の死の報せに思わず自害しようとした正行は、母の久子の方に諭され改心し、父の遺志を継ぐ決意を固めました。
そして成長した正行は父と同じく南朝方の武将として戦いました。正成の嫡男として正行は南朝方の人々にたいそう期待され、1347年には住吉浜で北朝方の山名時氏・細川顕氏連合軍を打ち破るなど、その実力を見せつけました。連合軍を破られた北朝方は、翌年の1348年、本格的な南朝攻撃を決意し、足利尊氏の家臣・高師直を大将に大軍を編成しました。北上する正行の軍と高師直の軍は四條畷の地で対峙し、「四條畷の戦い」が始まりました。この合戦は圧倒的な兵力差があるもので、正行は死を覚悟していました。戦いに赴く際、正行は寺に行き、一族郎党143名の名前を過去帳に書き付け、自らの髪を奉納し、辞世の句を遺しました。

「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
(生きて帰ることはないと決意し、その決意を共にする者たちの名をここに書き残す)

結果、正行の楠木軍は敗北し、正行は弟の正時と共に自害しました。

明治時代になると、天皇家に尽くした人物が顕彰されるようになりました。最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成が「大楠公」として神格化され、同じく後醍醐天皇に仕えた正行も「小楠公」と呼ばれ崇められました。正行が没した四條畷の地に四條畷神社が創建され、正行のほか、正時、正家、和田賢秀など楠木一族が祭神として祀られています。
現在、四條畷市では毎年「四條畷楠公まつり」が行われています。天皇のために戦った楠木正成・正行ら楠木一族の武将たちを顕彰するこのお祭りでは、子供たちによる可愛らしくも勇ましい武者稚児行列が行われ、南北朝時代の様子を再現しています。

今年は生憎の雨模様となり、武者行列は中止、四條畷神社にて神事のみ行われました。楠木正行役をはじめ、武者行列の参加者たちが拝殿に向かって拝礼しました。

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